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東京高等裁判所 昭和56年(行ケ)117号 判決

審決取消事由の存否について検討する。

審決は、本願発明の目的物質であるトランス―4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸は引用例二にその製法とともに有用な抗プラスミン剤として記載されている公知化合物であると認定しており、被告は、その記載されているとみられる理由として、引用例二に記載されている4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸についてはシス型及びトランス型の両異性体が存在することは構造式から一目瞭然のことであり、また、引用例二にはシス型の異性体のみを得た旨の明示もないから、引用例二にはトランス―4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸が開示されていると主張するので、まず、この点について考察する。

(一) 成立に争いのない甲第四号証によれば、引用例二には、P―シアノ安息香酸を無水酢酸中で白金触媒の存在下そのニトリル基及びベンゼン核を同時に接触還元した後加水分解することによつて4´―アミノ―4―メチル―シクロヘキサン―1―カルボン酸すなわち4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸を製造する方法が記載され、この方法によつて得られる4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸は抗プラスミン剤として有用であること(同号証第一ページ右欄第二三ないし第二五行)、及び右4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸が融点二三七ないし二三八℃(分解)を持つこと(同号証第一ページ左欄第二七ないし第二九行及び第二ページ左欄第一五、一六行)が記載されているが、生成物がシス体であるかトランス体であるか又は両者の混合物であるか等に関しては、何ら記載がないことが認められる。

(二) ところで、成立に争いのない乙第一号証の二(大有機化学)によれば、同号証には、置換基を持つ芳香族化合物を接触還元する際における幾可異性体の生成について、「cis体またはtrans体を特に生成することについてはSkitaとV.Auwersの法則が提出されている。これによると、置換基をもつたベンゼンを酸性溶媒のなかで白金をもちいて還元すると、おもにcis付加がおこつてcis異性体が優先的に生成し、また中性および塩基性溶媒をもちいて水素添加すると、おもにtrans体が優先して生成する。また高温で水素添加してもtrans体が優先して生成する。さらに反応速度にも関係があり、はやいときはcis体を、おそいときはtrans体に富んだ生成物をあたえる。」という記載がある(同号証第一九四ページ第一三行ないし第一九五ページ第四行)ことが認められるが、他方、成立に争いのない甲第一〇号証(ヘルベチカ・キミカ・アクタ)によれば、同号証には、テレフタル酸ジメチルエステルを酢酸に懸濁し、酸化白金を用いて還元するとヘキサヒドロテレフタル酸のトランス体とシス体とを純粋な状態で単離できた旨の記載がある(同号証第六一ページ第一二ないし第一九行、訳文第一ページ下から第五行ないし第二ページ第三行)ことが認められ、また、成立に争いのない甲第九号証(ジヤーナル・オブ・ザ・ケミカル・ソサエテイ)によれば、同号証には、実験例として、0―トルイル酸を水酸化ナトリウム水溶液で中性溶液とし、ラネーニツケル触媒を用いて還元し、生成物を塩の形で精製し単離するとトランス―2―メチルシクロヘキサンカルボン酸が得られ、また、0―トルイル酸を氷酢酸に溶かし酸化白金を用いて還元し、生成物を塩の形で精製し単離するとシス―2―メチルシクロヘキサンカルボン酸が得られる旨の記載がある(同号証第一〇一二ページ第二三ないし第五五行、訳文第五ページ第八行ないし第八ページ第八行)ことが認められる。

右乙第一号証の二、甲第九号証及び甲第一〇号証の各記載によれば、置換基を持つ芳香族化合物を接触還元する際には、その反応条件によつてトランス体及びシス体のいずれか一方が優先的に生成すること及びその両者が同時に生成する場合があることが認められるが、生成物を精製したものがトランス体とシス体の混合物ではなくトランス体またはシス体のいずれか一方のみである場合があることもまた認めることができるのである。そうすると、右の反応においては、いかなる場合にも生成物がトランス体とシス体との混合物の状態で得られるということはできないこととなる。

(三) 右(二)において認定した事実を前提として、引用例二の4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸についてみると、引用例二には、前記(一)で認定したとおり、P―シアノ安息香酸を無水酢酸中で白金触媒の存在下接触還元した後加水分解し、生成物を精製することによつて融点二三七ないし二三八℃の4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸が得られる旨記載されているのみであるから、得られた4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸については、たとえその平面構造からみればシス体とトランス体の存在が推測できるとしても、本願発明の出願前においては、引用例二の記載からそこに記載された4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸がシス体とトランス体との混合物であると断定することはできなかつたものとみざるをえないのである。

(四) 右の点に関し、被告は、立体異性体が存在する場合において、それが混合して存在している場合には混合していることが特記されないことも多いと主張する。

しかしながら、被告が右に主張するようなことは、光学的性質の点でのみ異なる光学異性体におけるラセミ体については妥当するけれども、異性体が互いに物理的・化学的性質を異にするシス―トランス異性についてもこれが妥当することを認めるに足る証拠はなく、かえつて、いずれもその成立に争いのない甲第一一ないし第一六号証においてシス―トランス異性について異性体の確認された場合にそのことが明示されていることからみても、シス―トランス異性についてシス体ともトランス体とも明記されていない場合には、その物質の立体構造が未だ確認されていないとみるのが技術常識であると考えられる。

したがつて、引用例二にシスートランス異性について明記されていない以上、引用例二における融点二三七ないし二三八℃の4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸がシス体であるのか、トランス体であるのか、それとも両者の混合物であるのかは、本願発明の出願前には未だ不明であつたといわざるをえず、被告の右主張は採用できない。

(五) また、被告は、原告が引用例二に記載の4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸中にはトランス体が約三五%混在していることを確認したことを捉えて、引用例二に記載してあるものがシス体とトランス体との混合物であることを裏付けるものであると主張する。

しかしながら、右の確認は本願発明の出願後に得られた新たな知見であることは弁論の全趣旨から明らかなところであるから、この知見によつて、引用例二における前記(三)及び(四)に認定した不明の事実が、本願発明の出願前に遡つて明確になるものでないことは勿論であり、被告の右主張は理由がない。

(六) 以上のとおりであるから、他に引用例二に記載の4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸がトランス体とシス体との混合物であることが本願発明の出願前に知られていたことを認めるに足る証拠のない本件においては、本願発明の目的物質であるトランス―4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸が本願発明の出願前に公知の化合物であるとすることはできない。

そうすると、審決の理由自体から明らかなとおり、引用例二にはトランス―4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸は明記されておらず、また、前記のとおり引用例二の4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸にそのトランス体が含まれていることが本願発明の出願前に確認できていなかつたものであり、成立に争いのない甲第二号証(本願発明の特許出願公告公報)によれば、トランス―4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸は著しく優れた抗プラスミン効果を示すものであることが認められるから、本願発明が、その出願時において、右のような優れた作用効果を示すものを製造する目的で、弁論の全趣旨により右出願前新規な物質であると認められるトランス―4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸低級アルキルエステルを出発物質として選択し、加水分解反応を行なわせることに想到することは、当業者にとつて容易であつたとみることはできない。

したがつて、本願発明は、引用例一及び引用例二に記載の事項から容易に発明できたものではないといわざるをえず、審決には、この点に関する認定判断を誤つた違法があるとしなければならない。

そして、右の違法が審決の結論に影響を及ぼすべきものであることは明らかであるから、審決の違法を理由にその取消を求める原告の本訴請求を正当として認容することとする。

〔編註〕 本願発明の要旨は左のとおりである。

トランス―4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸低級アルキルエステルを加水分解することを特徴とするトランス―4―アミノメチルシクロヘキサン―1―カルボン酸の製造法。

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